東日本大震災から二年目を迎えて

あの大震災から早や2年が過ぎ去った。2年前の3月11日午後2時46分。冬になってからは暖房費を節約しようという世知辛い心持から居間の食卓で仕事に勤しんでいた私はいきなりとてつもない大きな大地の揺れに見舞われた。携帯電話が鳴っている。埼玉にいる長男からだ。

「地震みたいだけど大丈夫?」

「今、揺れているところだ。後で電話する!」

背にしたサイドボードが倒れかかって来そうな勢いで揺さぶられている。私と妻はそのサイドボードを押さえた。揺れは一向に収まる気配はない。「静まれッ!」と叫んだものの、そんな声が天に通じる道理はない。猫たちが右往左往している。犬のラビーは恐ろしさに吠え立てながら座り込まんばかりにして、おしっこをもらしているが、それにかまけているゆとりはない。手の届かぬ左端のガラス扉が開いて、中から幾つものワイングラスが澄んだ美しい音を響かせながら落ちてゆく。ミシミシと不気味な音を立てながら家は揺れ続けた。その揺れと共にコンピューターの画面からは辞書編纂の為に書き込んでいた全ての文字は消えていた。停電だ。最早、携帯電話もつながらなかった。私は外に停めてあった車に乗り込み、エンジンを作動してテレビのスイッチを入れた。テレビの画面が現れるまでのほんの僅かな時の移ろいに心が急いた。程無く東北一帯が此れまでにない大地震に見舞われたとのニュース速報が目に飛び込んだ。停まっている車が上に下に大きく揺れた。横に目を向けると今は無人となっている家がやはり不気味な音を立てて右に左に傾いでいる。電柱もしなるように揺れて、電線が波のように大きく上下した。私は慌てて車のエンジンスイッチを切って、家に駆けこんだ。妻はラビーのおしっこの後始末をしていた。ラビーの顔は尚も恐怖に慄いている。サイドボードの前にワイングラスの破片が散らばっていたが、百本ほどのワインは台所の床下に寝かせてしてあるので大丈夫だろうと思う。やがて、半年前から居候をしていたドイツ娘がさも恐ろしかったといった面持ちで帰ってきた。その三日前にも大きな地震に見舞われて驚いていた彼女だったが、その日も駅横に並ぶ高層ビルの中で日本語を学んでいた時に地震に遭ったのだった。日を置かずに二度にわたって大きな地震に見舞われたそのドイツ娘の目はうろたえていた。夜になって、何年も前にドイツで買い求めた大きな蝋燭を何本も灯しながら私たちは夕食を済ませた。電気を失った今、電源を頼りとする温風ヒーターは役に立たない。3階の書斎の押入れに仕舞っていた大昔の反射式のストーブを持ってきて暖をとり、その晩は3人ともども居間で寝ることにした。夜中に目を覚まして懐中電灯の明かりを灯してしてみると、椅子を並べてベットして眠りについた筈のそのドイツ娘は床に転がっていた。ぶり返す余震で椅子から転げ落ちたのかと思ったが、椅子のクッションを下にしているところからしてみるに寝場所を変えたようだった。

2年前の11日からはその直前に入籍を果たした次男のお嫁さんと宮城県南部の亘理町に住まう、そのご家族そして岩手県の大槌町に在住する大学の後輩にして合気道道友の安否に苛まされていた。石巻で内科医として医院を開業している親類も心配だったが、こちらの方はその後、大手の水産加工会社の社長を務めているその医者の弟から「石巻の社員からの知らせで無事が確認された」との連絡があって心が安らいだ。

電気は通っていない。携帯電話は音声での遣り取りは叶わなかったが、メールの送受信は可能だ。仙台に勤務する次男にお嫁さんとご家族の安否を尋ねると、「避難して大丈夫だろう」とだけ返信があった。「大丈夫だ」と望みを託しながら推測しているのだろう。私は6月に結婚式を挙げる予定にしていた二人が不憫でならなかった。

地震の直後から途絶えていた電気が戻って明るい夜を迎え、被災状況がテレビで放映されるにいたり、被災地の地獄絵に涙する日々が続いた。暫くして漸く先の双方の安否が判明した。

次男は「避難をしている。だから大丈夫だろう」といいう意味でメールを寄越していたのだった。この赤い部分の有り無しで意味が異なることを言語学的に伝えたかった私はその叱責を胸に納めた。

大槌の友人の行方について私はインターネットを駆使して調べまくっていたところで、同窓の友人からインターネット上で無事が確認されたとの連絡があった。私は嬉さの涙に咽びながらも、自らインターネットで友人の安否を確認した。ところが、どうしても生存者の中に該当する名前が見つからない。その連絡を寄越した後輩に私は苛立った。やがて私の携帯電話の着信音が鳴った。電話の画面に友人の文字が浮かんでいた。私は咽び泣きながら電話を受けた。

「本当に、生きているんだな!」

今度はどう支援してゆこうかという思いが頭を廻る。石巻の親戚筋の方は大丈夫だろうと自らに言い聞かせた。

その春の大学の市民会館での全学合同卒業式は取り止めとなり、学内においての各専攻講座でのつましい卒業式となって、たまさか役目から私が専攻生への祝辞を述べなくてはならず、この震災との関連から大槌の友人の話に触れたところ、同僚の一人から日赤へ義援金を贈るよりもそうした縁のある方にご芳志したいとの申し出をいただいた。私は早速、母校の大学の同窓会岩手県支部と合気道の仲間へも支援のお願いをした。沿岸の友人の娘さんはこの3月をもって大学での学業を済ませることとなり、私の個人的な支援は終わりとなる。

この震災から数か月が経た頃、勤務先の大学でボランティアの募集があったので私も応募したのだが、私は選考から外された。理由は明らかだ。程無く高齢者の仲間入りを果たすことになる私は足手まといになるだけだろう。私に出来ることは何もないのかと呆然とせざるを得なかった。

それでもこれから先、被災された方々へ寄り添う心を風化させることなく、今後も何らかの形で支援の心を表す事が出来ないだろうかと考えているのだが、私一人では何も出来ないというもどかしさで一杯である。

被災者の方々、被災地のために何かお役に立てることはないだろうか?果たして何が出来るのか?

このところ感じていることの一つは、行政からはじき出されているかのように思えてならない被災者の方々の「働きたくとも働けない。住宅を建てようにもその場所が見つからない」などなどの被災地の声を「行政として」の町、県そして国家レベルへと押し上げる小さな単位での支援会議のような組織化が必要とされているのではないかという位のおぼろげな構想だけである。こうしたプロジェクトを立ち上げるにあたって、果てさて、どう動くべきなのか?どこをどのように整理してゆけばよいものか?そして行政はもとより、実学の経験のない「でくのぼう」の私にとって何よりも大きな壁はこうした構想の実現への方向性そのものが実に漠然としていることだし、私にはそうした事業を推進する能力も手腕もない。息災ながらも幾つかの病をかかえる私はこの先どれほど生き永らえるのか、その見当はつかない。そうとは言っても何かしら被災地のお役に立ちたい。

東京では国立劇場で天皇、皇后両陛下のご臨席のもと追悼の記念式典が挙行された。2時46分。起立して一分間の黙祷を捧げる私の心には何も浮かんでこない。涙が留めどなく流れるばかりだった

忘れたくない。いつまでも忘れてはならない。そのためには何をすればいいのだろう?何が出来るのか?それが知りたい!

私はこれまで素性を明らかにしてこなかったが、暫く前にメールアドレスをこのホームページの表紙に載せた。今日ここに私の幾ばくかを曝け出すことにする。ただひろしと名乗る私は能登恵一、岩手大学人文社会科学部に奉職していて、昨春に定年退職を迎えた老人である。この独り言をご覧になられた諸賢諸氏よりのご助言を待ち侘びている。

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